小杉山の歴史1(文化財)

 

「西会津町の指定文化財」   平成九年 西会津町教育委員会刊

○史跡 大杉山村慶長地震遭難者供養塔

指定・昭和六十年七月三十日   所有者・小杉山区

慶長十六年(一六一一)八月二十一日昼、会津に大地震が襲い、鶴ヶ城の石垣が崩れて天守が傾き、如法寺鳥追観音堂を始め柳津・塔寺・新宮などの会津の代表的な堂塔が倒壊または大破した。

この時、飯谷山が抜け落ちて、その山麓に在った現在の小杉山の本村大杉山村が埋没してしまい、村民百余人が埋死、逃れた者わずかに男女五人という災害となった。

この塔は、それから百四十一年後の宝暦二年(一七五二)八月二十一日に遭難者供養のため小杉山村が建立したものである。

文化五年(一八〇八)の村書上げによれば一尺五寸角(四五・五㌢)・高さ五尺五寸(一〇六㌢)の石の正面に「伏惟相当過去各々老若男女百有余亡者百五十箇年而奉造立七宝塔以伸供養時立」、左面に「大椙山村慶長十六年卒亥八月二十一日之昼飯谷山抜落一村男女土中埋死 宝歴二壬申八月二十一日村中寄進」(一部「新編会津風土記」より)と彫付け「村中稲荷下ㇳ申所ニ御座候」とある。

現在は破損が進んで全文は読み取れないが、宝暦二年に小杉山村民が二〇五日間にわたって遭難者を掘り起して合葬供養をしたといわれており、歴史的にも民族的にも価値の高い供養塔である。

 

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○歴史資料 大杉山村御水帳

指定・平成6年3月24日 田崎直家所蔵

この大杉山村水帳(検知帳・土地台帳)は慶長八年(一六〇三)に作成されました。慶長八年は二月に徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開き、四月には豊臣秀頼が内大臣となり、七月に家康の孫千姫と結婚した年で、会津の治世は再蒲生の秀行六十万石の時代です。

大杉山村は現在の小杉山の本村ですが、この水帳の年から八年後の慶長十六年八月二十一日昼の大地震によって壊滅しました。この地震は如法寺観音堂を始め柳津、塔寺、新宮などの会津の代表的な堂塔を倒壊または大破させたのですが、大杉山村の場合は、宝暦二年(一七五二)小杉山村で建立の見宝塔(供養塔=町指定)の碑文によれば「老若男女百有余、飯谷山抜落土中埋死」とあって、他の史料では「逃れる者わずかに男女五人」という災害でした。

この水帳に記載されている人名は、甚六、勘左衛門、藤五郎、与四郎、文二郎、平二郎、藤八郎、四郎左衛門、木の介、源六、与五郎、平左衛門、孫二郎、ねいの介、与七郎、四郎左衛門、藤右衛門の十七名(総高九百二十五文)で当時少なくとも十七戸の立百姓がいたことがわかります。ちなみに、この大杉山村の壊滅によって本村となった小杉山村は寛文五年(一六六五)の「稲河領野沢組万改土地帳」によれば家四軒、竈(かまど)十、端村(新田)家四軒、竈四、高四十四石余となっています。

いずれにしても、この水帳は地震によって消滅した大杉山村という一村の存在明らかにし、また慶長八年というまだ中世の香りが残る文書として貴重です。

(広報にしあいづ 平成六年四月二十六日号)